漢語法相唯識宗の伝承
法相宗
大唐の第二代君主である太宗皇帝の貞観十九年乙巳(645年)、玄奘三蔵は西天(インド)から帰還し、持ち帰った経論などを翻訳して、自らが修めた法相宗を弘めました。三千人の門人、七十人の達人、四人の優れた高弟、一人の奥義を極めた入室の弟子がおり、世を挙げて法相宗を学び、国を挙げて唯識の教えを修習しました。数多の高弟の中から抜きん出た、ただ一人の入室の弟子、それが慈恩大師窺基(きき)その人です。二蔵(経・論)の眼目であり、百本の注釈書(百本疏主)の著者である彼は、目からは神光を放ち、口からは弁舌の川を流しました。淄州(ししゅう:慧沼)と濮陽(ぼくよう:智周)がその跡を継いで教えを敷き、義忠と如理が肩を並べて義(教理)を立てました。因明(論理学)と内明(仏教学)の二つの学問によって義の天に羽ばたき、教(理論)と観(実践)の二門によって法の地に教えの車輪を走らせました。後代までその足跡は絶えることなく連なり、永遠にその教えは廃れることがありません。
---『三国仏法伝通縁起』:巻一、「震旦(中国)仏法伝通」より。
法相宗
法相大乗応理円実宗、別名を唯識宗とも言い、また普為乗教とも名付けられます。玄奘三蔵は中天竺(インド中部)に赴いてこの宗の教えを広く伝えられ、支那国(中国)に帰還してからは天下に講じ弘めました。三蔵の優れた高弟には慈恩基(窺基)師がおり、基師の高弟には淄州(慧沼)師が、淄州の高弟には濮陽(智周)師がおり、嫡流の祖師として代々受け継がれ、縦横に大いに栄えました。
この法相宗が日域(日本)に弘宣されたのは一つの時代に限らず、師資の継承も何度かありました。昔、欽明天皇の御代、壬申の年(552年または538年)、百済から仏法が初めてこの国に伝来しました。その後百二年を経て、第三十七代孝徳天皇の御代、白雉四年癸丑(653年)、道昭(どうしょう)和尚が海を渡って唐に赴き、玄奘三蔵に巡り会って法相宗を学びました。
それはまさに唐朝の第三代君主である高宗皇帝の永徽四年癸丑にあたり、玄奘三蔵は五十一歳、慈恩大師は二十二歳でした。道昭は三蔵と同じ部屋に起居し、慈恩と共に学び、長くその門下にあって長年学問を受け、懇切丁寧な指導を受け、特別に観門(観心の修行法)を伝えられました。その後帰朝し、伝えられた三蔵の新訳経論の諸典籍を弘め、日域に初めて伝えました。彼こそがその人なのです。
第二の伝承は、道昭が唐に入ってから六年を経た後、第三十八代女帝・斉明天皇(皇極天皇の重祚)の御代の四年戊午(658年)、智通(ちつう)と智達(ちたつ)の両法師が新羅の船に乗って大唐国に赴き、玄奘三蔵に巡り会って法相宗を学んだことです。
大日本国ではこの戊午の年に初めて維摩会(ゆいまえ)が行われ、これが永遠の規範となりました。彼らは慈恩大師からも法を兼学し、後に本朝(日本)に帰還してその宗旨を大いに弘めました。
第三の伝承は、道昭が唐に入ってから五十一年を経た後、第四十二代君主・文武天皇の御代、大宝三年癸卯(703年)、新羅の智鳳(ちほう)、智鸞(ちらん)、智雄(ちゆう)の三師が共に勅命を奉じて海を渡り唐に入り、濮陽大師(智周)に謁見して法相宗を学んだことです(あるいは玄奘や慈恩に会って宗旨を学んだとも言われますが、両師の入滅から年数が経過しています)。そして本朝に帰還し、大いに宗教を弘めました。智鳳は慶雲三年丙午(706年)に維摩会の講師を務めました。
第四の伝承は、道昭が唐に入ってから六十四年を経た後、第四十四代女帝・元正天皇の御代、霊亀二年丙辰(716年)、玄昉(げんぼう)法師が海を渡って唐に入り、濮陽の智周大師に謁見して法相宗を研鑽したことです。その時智周は三十八歳であり、唐の開元四年でした。玄昉法師は唐で法を学ぶこと二十年を経ました。第四十五代聖武天皇の御代、天平七年乙亥(735年)の七月に帰朝し、伝えられた宗旨を大いに称揚しました。
これら四代の伝承が連綿と続き、それぞれが宗教を伝えました。中でも智鳳の門葉は世を経て非常に栄えました。玄昉が伝えたものは智鳳のものと一つに合流し、事(実践)において異なる道はなく、すべて通じて弘められ演説されました。
道昭和尚は行基菩薩に法を授けました。智鳳と智鸞はそれぞれ義淵(ぎえん)僧正に法を授けました。義淵には七人の優れた高弟がおり、玄昉僧正、行基菩薩、宣教大徳、良敏大僧都、行達大僧都、隆尊律師、良弁(ろうべん)僧正です。
道慈律師もまた彼に従って法を学んだため、合わせて八人となります。
しかし道慈律師は諸宗を学んだものの三論宗を根本としたため、専らその宗の祖師となりました。
興福寺と元興寺の南北両寺には学ぶ者が多く、競って義理(教義)を打ち立てました。因明と内明の二明によって互いに金玉のように論争し、朋党(派閥)が互いに扇動し合い、両寺の違いを生み出しました。現在に至るまで興福一寺では、学徒が跡を継ぎ、論難(論争)がますます盛んですが、これらはすべて智鳳と玄昉の後裔の門葉にすぎません。
しかし、法相宗は興福寺が根本として学ぶものではありますが、諸寺でも多く学ばれ、弘められないところはありませんでした。すなわち、延祥僧正、守印大法師、守寵法師、神叡小僧都、広達大法師、勝虞大僧都、護命僧正、明詮僧都、平備已講施平律師、長源已講峰基律師、賢応已講玄宗和尚などの諸師は、皆、元興寺の法相宗です。
仲継律師、明哲律師、長朗律師、戒明和尚、慧達大僧都、真慧律師、隆光律師、平智律師、薬仁已講義聖律師、義叡小僧都、蔵祚小僧都、慈念律師などは、皆、薬師寺の法相宗です。
東大寺の本願である良弁僧正は、東大寺を建立して専ら華厳宗を弘めましたが、元々は義淵僧正に従って法相宗を学んでいたため、東大寺でも兼ねて法相を弘めました。
良弁の弟子には、華厳と法相を兼学した者(安寛律師、標瓊律師、鏡忍律師など)や、唯だ華厳宗のみを学んだ者(良興小僧都、良慧大僧都、永興律師など)がいます。三修律師平仁已講、明一大徳義済已講、法蔵僧都円芸已講などは、皆、東大寺の法相宗です。
泰演律師、善海律師、玄叡律師、実敏大僧都、平詮大法師、忠芬小僧都、常騰小僧都、延善小僧都、浮珍已講などは、皆、西大寺の法相宗です。
大安寺にも法相宗がありました。道慈律師は唐に入って法を学び、帰朝した際、最初に慈恩(窺基)の『大乗法苑義林章』七巻を講じました。それ以来、法相の余風がその寺で大いに扇動されました。
法隆寺は、中古以来法相を学習し、現在でも非常に盛んです。
薬師寺も、法相を学習し、現在でもますます盛んです。
興福寺は、昔から後代に至るまで、専ら法相を学んでいます。学徒は繁栄し、論難も盛んです。学ぶ者の数は知れず、鑽仰(深く研究し仰ぎ見ること)は年を限りません。智の海は深く、義の峰は高くそびえています。その相承の次第や、縦横の支流を述べようとすれば、すべてを挙げることは困難です。
そこで、主流となる嫡流の祖師の次第を一つ挙げます。智鳳、義淵、宣教大法師、賢璟大僧都、明福小僧都、延賓已講、空晴僧都、真喜僧正、林懐大僧都、主恩大徳(あるいは経救大僧都)、永超僧都、湛秀已講、覚晴大僧都、蔵俊贈僧正、覚憲僧正、そして貞慶上人です。貞慶の後、現在に至るまでの若干の英哲(優れた哲人)や智徳の者は、すべて貞慶の後裔の門流に他なりません。南都六宗の長官は、昔から単独で存在していました。法相一宗は興福寺を補佐しました。別当(寺の長官)の職にある人は、遂にこの前途を歩みました。応和以降、権官が置かれるようになりました。維摩大会は興福寺で行われます。学業を遂げ、講義を遂げるのは、専らその寺だけではありません。他寺や他宗の者もまた、この大いなる業を遂げるのです。
---『三国仏法伝通縁起』:巻二、「大日本国諸宗伝通」より。
