撰述者: 台湾 王穆提(ワン・ムーティ)
撰述者: 菩薩蔵仏教学会 王穆提
依拠経論: 『瑜伽師地論』、『成唯識論』、『成唯識論述記』、『摂大乗論』
第一節 夫れ道の根源と流変
夫れ真如(しんにょ)の理体は、言説を離れ形相を絶し、本来、顕教・密教の分かちなく、性(しょう)・相(そう)の別もない。しかるに衆生の機根は千差万別であるがゆえ、教えの網は広く開かれ、ついに性・相・禅・密といった異なる流れが生じたのである。
唯識宗(ゆいしきしゅう)は、慈氏(弥勒)に源を発し、無著・世親によって顕らかにされ、護法・玄奘において大成された。その特質は「極めて精微なること」にあり、八識心王・五十一心所を解剖し、五位百法を建立し、厳密なる因明(論理学)をもって我執・法執の二執を破し、転識得智(てんしきとくち)を為すにある。これこそ「教相」の極致であり、精密なる解剖図譜のごとく、行者に病の所在と薬の在り処を知らしめるものである。
大手印(マハームドラ)は、サラハに源を発し、龍樹、シャヴァリパに伝わり、ナロパ、マルパにおいて盛んとなった。その特質は「直指人心(じきしにんしん)」にあり、名相の葛藤を破し、文字を立てず、直ちに倶生智(くしょうち)を顕すにある。これこそ「事修」の究極であり、鋭利なる剣を一振りするがごとく、直ちに生死(しょうじ)の命脈を断つものである。
世人は多くこの二者を水と火のごときものとなす。曰く、唯識は名相を重んじ煩雑に滞りやすく、密乗は直覚を重んじ狂怪に流れやすい、と。しかれども、私(王穆提)が思うに、唯識にもし実証がなければ、他人の宝を数えるごとき乾慧(けんね)の論師と成り果て、密乗にもし法相(論理)がなければ、暗室で象を撫でるごとき盲修の狂徒と成り果てるであろう。
今、私が『成唯識論述記』ならびに『瑜伽師地論』を整理する余暇に、西天の大成就者サラハの『道歌三部作(ドーハー・コーシャ)』を読み返すに、その狂慧の語句は、一句として唯識の義理を離れていないことに驚嘆した。その儀軌への呵責は、即ち「遍計所執(へんげしょしゅう)」を破するものであり、その心性への直指は、即ち「円成実性(えんじょうじつしょう)」を顕すものであり、その貪欲の転化は、即ち「煩惱を転じて菩提を得る」ものである。
故に浅学を顧みず、護法菩薩の正義(しょうぎ)に依り、慈恩大師(窺基)の疏式(注釈の形式)を採り、ここに『唯識新疏』を撰述する。その意図は、法相の規矩をもってマハームドラの方円(ありよう)を正し、唯識の明鏡をもって狂慧の真心を照らすことにある。唯識を修める者にはマハームドラの活発さを得せしめ、密乗を修める者には法相の厳格さを得せしめんとする。これが造疏の縁起である。
第二節 サラハ尊者の唯識的背景考
サラハ尊者の生涯を按ずるに、彼はもとバラモンであり、後にナーランダー寺(Nalanda)に入り出家した。ナーランダー寺とは、大乗唯識学の重鎮である。護法、戒賢らの論師も皆ここに駐錫(ちゅうしゃく)していた。サラハは既にナーランダーの高僧であったなれば、『瑜伽師地論』や『唯識三十頌』などの経論については、必ずや胸中に爛熟していたはずである。
その後、彼は飲酒や、矢作りの女(箭女)を伴って遊行するなど、外見は狂気のごとく示現したが、その内証の境地は、実に唯識の「万法唯識」の根本を離れてはいなかった。彼が『道歌』の中で批判したのは、唯識の「理」ではなく、唯識学者の「執(とらわれ)」である。
当時の学者の多くは、「名言種子(みょうごんしゅうじ)」を実体あるものと執着し、「自証分(じしょうぶん)」による親証(自ら悟ること)を忘失していた。サラハの喝破は、実に学者の「所知障(しょちしょう)」を打破し、「比量(推論)」から「現量(直観)」へと回帰させるためのものであった。故にこの『道歌』は、実に唯識宗の「実修指南書」であり、反唯識の著作ではないのである。
第一節 心の定義:阿頼耶と倶生智
サラハは『道歌』の中でしばしばこう述べている。「心は種子の唯一の因なり(Citta is the only seed.)」と。この語をもし唯識をもって解釈しなければ、汎神論や外道の神我見(アートマン)に堕ちやすい。
『成唯識論』巻三に依れば、「初能変識、大小乗教、名づけて阿頼耶(アーラヤ)となす。この識は能蔵・所蔵・執蔵の義を具するが故に」とある。
サラハの言う「心」とは、即ちこの第八阿頼耶識(アーラヤ識)のことである。
種子義(Bija):
サラハは「輪廻と涅槃はこれより生ず」と言う。即ち、阿頼耶識の中に「有漏(うろ)の種子」と「無漏(むろ)の種子」を含蔵していることを指す。有漏種子が現行すれば、六道輪廻の雑染相(遍計・依他)を変現し、無漏種子が現行すれば、四聖法界の清浄相(円成)を変現する。故に阿頼耶識は、染浄諸法の総依(総体的な依り処)なのである。
倶生義(Sahaja):
サラハの核心的教えは「倶生(サハジャ)」である。唯識の義に依れば、これには二つの解釈がある。
染分(ぜんぶん): 「倶生我執」と「倶生法執」を指す。これは生まれながらにして備わり、第七末那識と第八識の深層に潛在しており、「分別我法二執」のように浅く断じやすいものではない。サラハの修法は、まさにこの最も深細な倶生執を断たんとするものである。
浄分(じょうぶん): 「本有種子(ほんぬしゅうじ)」を指す。『摂大乗論』に云く、「無始時来の界(かい)……及び涅槃の証得」と。衆生の心中に本来具わっている無漏の種子、即ち如来蔵のことである。サラハの「直指」とは、この本来有する無漏の機能を指し示すことである。
第二節 三自性の運用:道歌の脱構築学
サラハの『道歌』の構造は、唯識の「三自性(さんじしょう)」を次第に演繹したものと見なすことができる。
遍計所執性を破す(Parikalpita-svabhava):
定義: 依他起の法の上に、妄りに実我・実法を執着すること。縄を見て蛇と思い込むがごとし。
道歌との対応: 『庶民への道歌』において、サラハはバラモンの護摩、外道の裸体、僧侶の法衣を痛烈に批判する。火、身体、衣は、本来は依他起の縁生法であるが、凡夫はこれを「神聖」あるいは「解脫の因」として執着する。これ即ち遍計所執である。サラハの嘲笑は、この等の虚妄なる計度(け度)を破し、「名言(概念)に実体なし」と知らしめんがためである。
依他起性を顕す(Paratantra-svabhava):
定義: 因に仗(よ)り縁に托(たく)して生じた法。幻のごとく化のごとく、実体なきもの。
道歌との対応: 『王妃への道歌』において、サラハは感覚、欲望、エネルギーについて論じる。彼は言う、「蓮華は泥より生ずも泥に染まらず」と。愛欲や感覚は皆、阿頼耶識が変現した相分であり、依他起性に属する。もしその幻なることを知り、取らず捨てずんば、転じて道の用(はたらき)と為すことができる。サラハは依他を断滅すること(二乗の厭離のごとし)を教えず、依他において円成を証することを教えるのである。
円成実性を証す(Parinispanna-svabhava):
定義: 依他起の上において、遍計所執を遠離して顕れる二空真如。
道歌との対応: 『国王への道歌』において、サラハは言う、「心性は本浄にして、かの虚空のごとし」と。これ即ち円成実性を直指するものである。真如の理体は凝然とし、生ぜず滅せず、造作によって得られるものではない。行者はただ執着を「解き放つ(遍計を離れる)」のみで、即座に本来の面目を見る(円成を証す)のである。
総導論 第三章~第四章
第一節 転識得智(てんしきとくち)と大手印(マハームドラ)の階梯
あるいは問う、唯識では「五重唯識観」を説き、資糧位・加行位・見道位・修道位・究竟位の五位を経て、三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう)を要するとするが、サラハは「即座に是なり(当下即是)」、「無修無整(むしゅうむせい)」と言う。この二者は矛盾するのではないか、と。
述(王穆提)曰く:矛盾にはあらず。これ即ち頓(とん)と漸(ぜん)の異なりにして、理体は則ち一なり。
因地(いんじ)と果位(かい)の視点:
唯識の教典は多く「因地(修行の過程)」より説を立て、修行の階梯を詳細に明らかにし、行者が等級を飛び越える(躐等)ことを防がんとする。一方、サラハの道歌は多く「果位(悟りの結果)」より直指し、法執(ほうしゅう)を破らんとする。サラハの言う「無修」とは、即ち第八地(不動地)以上の「無功用行(むくゆうぎょう/アナボーガ)」を指す。初心者にとっては、唯識の資糧・加行の階梯を廃することはできず、熟練の行者にとっては、サラハの直指こそが最後の関門となるのである。
転依(アーシュラヤ・パラヴリッティ)の真義:
唯識に云く、「二障(煩悩障・所知障)を転じて捨て、二果(菩提・涅槃)を転じて得る」と。
サラハは云く、「煩悩即菩提」と。
これは煩悩の「体(実体)」が即ち菩提であると言うのではなく、煩悩の「性(本質)」が即ち菩提(真如)であることを言うのである。
転識(てんしき): 第六識の分別を転じて「妙観察智(みょうかんざっち)」と為し、第七識の我執を転じて「平等性智(びょうどうしょうち)」と為す。
サラハの転化: 『王妃への道歌』に示すごとく、「貪愛」への執着(遍計所執)を転じ、「楽受」への覚照(依他起)を保ちつつ、「倶生喜(くしょうき)」(円成実)を証得する。これ即ち、唯識の「虚を遣(や)りて実を存す(遣虚存実)」中道観である。
第二節 真如の体性に関する正本清源(しょうほんせいげん)
近世の学者は、『大乗起信論』の「真如受薫(しんにょじゅくん)、随縁変造(ずいえんへんぞう)」の義をもって、大手印の「万法は皆これ真如の遊舞なり」という言葉を解釈しようとする。しかし、護法・玄奘の正統なる唯識の義に依れば、この説は汎神論の過ちに堕ちることを避けるため、慎重に揀択(けんちゃく)されねばならない。
『成唯識論』巻二に依れば、「真如も亦た是れ識の実性なり」とある。
真如は無為法であり、凝然(ぎょうねん)として常住であり、諸法を作(な)さない(不作諸法)。万法を生じせしめる者は、即ち第八阿頼耶識の種子(しゅうじ)である。
サラハは云く、「悪魔も仏陀も皆変現なり」と。この「変現」の主体は、識(種子)であり、性(真如)ではない。
サラハは云く、「心体は湛然(たんぜん)として未だ曾て動ぜず」と。この「不動」の主体は、性(真如)であり、識(現行)ではない。
本疏の立場は、この境界線を厳守する:
事相(じそう)の上では: 万法は唯識の所変なり(すべては意識・種子の現れである)。
理体(りたい)の上では: 万法は唯識の実性なり(すべての究極の本質は真如である)。
大手印の義: 万法の生滅(識変)の中において、不生不滅の背景(真如)を見出すことにある。サラハの「狂」は、彼が「識変」の幻相を自在に運用できる点にあり、サラハの「慧」は、彼が恒に「真如」の不動に安住している点にある。
第一節 不二法門の伝承
唯識宗には古来より「居士説法(こじせっぽう)」の伝統がある。『摂大乗論』は『勝鬘経(しょうまんぎょう)』に依って立てられたが、勝鬘夫人は即ち在家の居士である。また『維摩経(ゆいまきょう)』は更に唯識宗において重んじられ、維摩詰長者は「不二法門」を示現した。サラハ尊者は密教興隆の時に身を置きながらも、「白衣長髪」の瑜伽行者(ヨギ)の姿を示現し、実は維摩詰と遙かに呼応しているのである。
二者は共に出家の僧侶ではないが、共に如来の家業を担い、「煩悩即菩提、生死即涅槃」の大乗の極致を示現した。サラハの『道歌』は、『維摩経』の密教版注釈と見なすことができる。
第二節 紅塵(こうじん)修道の唯識観
俗世の紅塵(俗塵)の中において、出家して道を修めることは難しく、まして在家にて道を修めることは更に難い。しかるにサラハの『道歌』は、まさにこの「塵労(じんろう)」のために設けられた薬である。
彼は我々に、依他起(縁起)の世間から逃避することを教えず、依他起の上において、遍計所執(妄執)を打破することを教える。
市井(しせい)にあろうと、商場にあろうと、あるいは家庭にあろうと、身を置く場所は皆これ阿頼耶識の変現であり、皆これ「無修無整」の唯識観を修持する道場である。境(対象)は唯識なりと知れば、境は心を縛らず。心が心を縛らざれば、即ち当下(とうか)に解脱するなり。
(総導論 第一部・完)
総導論 巻中:百法との対応と五重の観行
撰述者: 菩薩蔵仏教学会 王穆提
依拠経論: 『大乗百法明門論』、『成唯識論』、『成唯識論述記』
サラハ尊者の『道歌』は、名相(専門用語)の煩雑さこそないものの、その心識の流動に対する洞察は、世親菩薩の造られた『百法明門論』と符節を合わせたように一致する。唯識宗は百法を立てて「一切法の無我」を明らかにし、サラハは道歌を歌いて「倶生(くしょう)の無我」を証する。
今ここに、百法を経(たていと)とし、道歌を緯(よこいと)として、行者のための心理地図を描き出さん。
第一節 遍行心所と狂慧の転化
サラハは『王妃への道歌』において、「楽受(らくじゅ)」の転化を強調する。これは遍行(へんぎょう)の五心所の中の「触(そく/Sparsa)」、「作意(さい/Manaskara)」、「受(じゅ/Vedana)」に関わるものである。
触と作意における警覚:
凡夫は、根(感覚器官)と境(対象)が接する(触)時、無明によりて染汚(ぜんま)の作意を生じ、生死(しょうじ)に流転する。
サラハは云く、「もし楽の本質を知らずんば、いかでか空の真義を知らんや」と。これ即ち、行者に対して「触」の刹那に、「如理作意(にょりさい)」を生ぜしめんとする教えである。境に随って転ずることなく、自心を返照するのである。
受の昇華:
唯識に云く、受に三あり、苦・楽・捨なり、と。凡夫は楽受を実有と執着し、貪愛を生ず。
サラハが教える「倶生の大楽(マハースカ)」とは、実に有漏(うろ)の「苦楽の受」を、「無漏の善法」と相応する清浄なる受へと転化させるものである。この受は外境に依らず、自証分の覚照に依りて生ずるが故に、「内に旋(めぐ)りて充遍す」と言うのである。
第二節 根本煩悩の対治:五毒を破す
サラハの『庶民への道歌』における批判は、刀が骨に達するごとく鋭く、六つの根本煩悩を直指する。
貪(とん/Raga):
「妻を捨てて天女を求む」ことを斥(しりぞ)けるは、即ち「対象を転移させただけの貪」を破することである。唯識に云く、貪は染着を以て性と為す、と。サラハは「無執の楽」を示し、貪を転じて「妙観察智(みょうかんざっち)」の審美と為す。
慢(まん/Mana):
バラモンが「これをもって自ら矜(ほこ)り」、長老が「自ら比丘と言う」を斥けるは、即ち「増上慢(ぞうじょうまん)」を破することである。唯識に云く、慢は己を恃(たの)んで他に対して高挙するを以て性と為す、と。サラハは「心は虚空のごとし」としてこれを対治する。虚空に高下なくんば、何の慢かこれ有らん。
痴(ち/Moha):
外道の「裸体抜髪」を斥けるは、即ち「無明」を破することである。唯識に云く、痴は理に迷うを以て性と為す、と。サラハは直ちに「心はこれ種子なり」と指し示し、因果を知らしめ、邪見の迷執を破する。
悪見(あっけん/Drsti):
「護摩、沐浴」を斥けるは、即ち「戒禁取見(かいごんじゅけん)」(非因計因:因ならざるものを因とみなす)を破することである。サラハは因果を釐清(りせい)し、ただ心の浄なる(正因)のみが解脱を得るのであり、外相に由るにあらずとする。
第三節 善心所の顕発:無功用行
行者が『国王への道歌』に依りて「無修無整」を修する時、それは昏沈(こんじん)にあらず、「善十一」心所の自然なる流露である。
捨(しゃ/Upeksa):
サラハは云く、「羈絆(きはん)を解きて任(まま)に安住せよ」と。即ち唯識の「行捨(ぎょうしゃ)」である。心を平等・正直・無功用住ならしめ、掉挙(じょうこ:心の高ぶり)と昏沈(こんじん:心の沈み)を遠離する。
不放逸(ふほういつ/Apramada):
サラハは云く、「執着を解き放て(鬆脱)」と。一見リラックスしているようだが、実は内なる覚性が朗然としており、雑染を防護している。即ち真の不放逸である。
慈恩大師(窺基)は『成唯識論述記』において、「五重唯識観」を立てて修証の次第を統摂した。サラハの三部の道歌は、次第として施設されたものではないが、その内在する理路は、宛然(えんぜん)としてこれに配当することができる。
第一重:遣虚存実識(けんきょそんじつしき)
(『庶民への道歌』の「破相」に対応)
唯識の義: 遍計所執の虚妄を遣り(虚)、依他起と円成実を存す(実)。
道歌の義: サラハはバラモンの儀軌、外道の苦行、僧侶の法衣を痛烈に排撃する。これらは皆、行者の「名相」や「形式」に対する虚妄なる執着を遣らんがためである。大衆に告げるらく、護摩に実体なく、裸体に実体なく、階級に実体なし。ただ内在する心識(実)のみが依るべきものである、と。
第二重:捨濫留純識(しゃらんりゅうじゅんしき)
(『庶民への道歌』の「帰心」に対応)
唯識の義: 相分を捨て(濫)、ただ見分を観ず(純)。境は唯識の所変なりと知り、境を摂めて心に帰す。
道歌の義: サラハは云く、「外に向かって探すなかれ……我が身体よりも神聖なる聖地はなし」と。これ即ち外境(聖地・経典)を摂めて内心に帰すものである。行者に、一切の外法は内識を離れざるを知らしめる。
第三重:摂末帰本識(しょうまつきほんしき)
(『王妃への道歌』の「見体」に対応)
唯識の義: 見分・相分の二分の末を摂めて、自証分の本に帰す。
道歌の義: サラハは云く、「楽の本質を知れ」と。楽受(相分)と能受(見分)は皆これ末なり。サラハは王妃に対し、受用の中において回光返照し、その「楽を知りまた空を知る」主体(自証分)を認知せしめる。
第四重:隠劣顕勝識(おんれつけんしょうしき)
(『王妃への道歌』の「転智」に対応)
唯識の義: 心所の劣を隠し、心王の勝を顕す。
道歌の義: サラハは情緒(心所)の転化を教える。貪瞋(劣)に転ぜられず、心王(勝)によりて主宰す。心王もし悟らば、煩悩心所は皆転じて智慧の助伴となる。
第五重:遣相証性識(けんそうしょうしょうしき)
(『国王への道歌』の「極致」に対応)
唯識の義: 依他起の識相を遣り、円成実の識性(真如)を証す。
道歌の義: サラハは云く、「心性は本浄にして、かの虚空のごとし」、「雲は聚散すれど……心体は湛然たり」と。これ即ち「識」の流動(依他起)を超越し、直ちに「性」の寂滅(円成実)を証するものである。これ乃ち事理一如、真俗不二の究竟の境界なり。
第一節 遮詮(しゃせん)と表詮(ひょうせん)の異なり
中観応成派(ちゅうがんおうじょうハ)の説く空は、多く**「遮詮(Apoha)」を用い、一切の辺見を破して、名を畢竟空(ひっきょうくう)となす。
唯識宗の説く空は、多く「表詮」を用い、遍計を破する(空)と共に、依他・円成を顕し(有)、名を「非有非空」の「妙有(みょうう)」**となす。
サラハの『道歌』は、「虚空のごとし」という譬喩(中観に似る)があるものの、その核心は更に唯識の「妙有」に偏っている。
彼は云く、「倶生喜」、「大楽」、「唯一の種子」と。これらは皆、心性の「機能」と「徳相」を肯定しているものであり、単純な遮破ではない。
故に本疏は護法の唯識義を採り、大手印を「真空妙有」として解釈する。真空とは、遍計を離るるが故に。妙有とは、無漏の功徳を具するが故なり。
第二節 離言自性と如来蔵
サラハの言う「心」は、単なる生滅する阿頼耶のみならず、更に転依した後の**「無垢識(むくしき/Amala-vijnana)」を指している。
この無垢識は、法相宗においては第八識の浄分に摂められ、如来蔵系においては第九識として立てられる。
本疏は『成唯識論』に依り、第九識を立てず、サラハの言う「倶生智」を、第八識転依後の「大円鏡智(だいえんきょうち)」**に摂める。この智は恒に現前し、未来際を尽くして、有情を利楽(りらく)する。
総導論 巻末:居士実修と法流回向
撰述者: 菩薩蔵仏教学会 王穆提
依拠経論: 『摂大乗論』、『維摩詰所説経』、『成唯識論』
第一節 在家の阿蘭若(寂静処)の建立
あるいは問う、唯識の修道は、古来多く山林や寺院にありて、諸々の外縁を息(や)めて、はじめて成就を得るものなり。しかるにサラハは「在家即解脱」を教う。俗務に纏(まと)わるる居士に対して、いかに操作すべきや、と。
述(王穆提)曰く:心浄ければ則ち土浄く、識転ずれば則ち境転ず。
『成唯識論』に依れば、外境に実体なく、唯識の所変なり。山林もこれ識であり、紅塵(俗世)もまたこれ識である。もし心に執(遍計)あらば、深山に処すといえども亦たこれ喧噪なり。もし心に執なくんば(円成)、市井(しせい)に処すといえども亦たこれ阿蘭若(Aranya、寂静処)なり。
居士実修の要は、「心理的阿蘭若」を建立するにあり。
サラハは云く、「家に明らかに夫あるに、愚婦は隣家の情夫を看る」と。
この「家」とは即ち自心を指す。居士は行住坐臥の中において、一つの「内在的観察者」(即ち妙観察智の雛形)を設立すべし。外は俗務(依他起)に渉るといえども、内は恒に審(つまび)らかに観照し、煩悩の種子(遍計所執)をして縁に随いて滋長せしめざるべし。これ即ち『維摩経』に所謂「居家(くけ)に処すといえども、三界に著せず」なり。
第二節 転依の具体的操作:六根門頭(ろっこんもんとう)の唯識観
サラハの『道歌』は単なる詩にあらず、これ実修の口訣なり。ここに唯識の義理に依りて、「六根転化の三部曲」を立つ。
第一歩:識相(しきそう/相を識る)
情境: 眼に色を見、耳に声を聞き、あるいは順境・逆境に遇う時。
唯識観: 即座に覚知すべし。「これ乃ち阿頼耶識の種子が変現せし相分にして、心の外に実有なるにあらず」と。
サラハとの対応: 『王妃への道歌』に云くごとく、「感覚を享受すれども執着せず」。その幻のごときを知り、境に転ぜられず。
第二歩:鬆脱(しょうだつ/解き放つ・緩める)
情境: 内心に貪愛あるいは瞋恨(しんこん)が生ずる際。
唯識観: 第七末那識が正にこの境を「掴み取ろう」とし、「我」あるいは「我所」と執着せんとするを覚察す。即座に「捨(しゃ)」の心所を運作し、この能取の執を緩め解くべし。
サラハとの対応: 『国王への道歌』に云くごとく、「羈絆(きはん)を解きて任(まま)に安住せよ」。鬆脱とは即ち執を断つなり。
第三歩:帰元(きげん/元に帰す)
情境: 執着が解けし後の寂静。
唯識観: この寂静は断滅にあらずして、真如理体の顕現(円成実)なるを体認す。「能所双忘(のうしょそうぼう)」の現量において安住す。
サラハとの対応: 「無修無整にして光自ら発す。」
第一節 サラハよりマルパへ
大手印(マハームドラ)の法脈は、源はインドにありといえども、その発揚光大は、実に一連の「白衣の瑜伽行者(在家ヨギ)」の伝承に頼る。この伝承は唯識宗の発展とも深き関わりあり。
サラハ(Saraha): 始祖。矢作りの職人として示現し、バラモンの形式主義を破し、心性を直指す。
龍樹(Nagarjuna): 得法者。中観をもって聞こゆといえども、密乗の伝承においては、亦たサラハより大手印の灌頂を受く。
シャヴァリパ(Shavaripa)とマイトリパ(Maitripa): 先を承け後を啓く。マイトリパ大師は唯識と中観に精通し、かつてナーランダー寺の護門学者を務め、後に入山して大手印を修す。彼は「唯識の 見(けん)」と「大印の 修(しゅう)」を完璧に結合し、法をマルパに伝う。
マルパ(Marpa): 集大成者。彼はチベット・カギュ派の初祖となり、「地主、商人、農夫」として示現す。彼に妻あり子あり、田産を経営し、性格は剛烈にして、全然として世俗の形象なり。しかれどもその内証は円満にして、即身成仏す。
第二節 マルパの唯識実践
マルパ大訳師の成就は、サラハの『道歌』が真実にして虚しからざることを証実す。
彼は剃度(ていど)せず、声聞の別解脱戒を守らざりしが、**「三昧耶戒(密乗戒)」を厳守せり。
彼は商売営利の中(依他起)にありて、貪婪を起こさず(遍計所執)、耕田管事の中にあって、空性に安住せり(円成実)。
これ即ち唯識宗の「俗に入りて染まらず、染に処して常に浄し」**という最高典範なり。
吾人、今日重ねてサラハを疏(しゃく)するは、実にまた遙かにこの法をもって、マルパ大訳師を供養するなり。当代の居士をして知らしめん、「成仏は世間法を離れず、唯識の正義は日用に在り」と。
第一節 総括
夫れ『サラハ尊者道歌三部作唯識新疏』は、護法・玄奘の厳格なる法相をもって、インド晩期密教の狂慧実修を解釈せんと試みたるものなり。
理路上においては: 「万法唯識」「真如凝然」「転識成智」の正統なる義理を堅持す。
事修上においては: サラハの「無修無整」「楽空不二」「直指心性」の方便竅訣(きょうけつ)を採納す。
唯識は狂慧に「眼目」を与え、その断常二辺に堕するを防ぎ、狂慧は唯識に「手足」を与え、その名相戯論に滞るを防ぐ。二者の合璧(がっぺき)は、誠に末法時期における、利根の居士のための無上の妙薬なり。
第二節 回向文
唯識性を稽首(けいしゅ)し 満分清浄なる者よ
サラハ尊者 大印伝承の師よ
我今経論に依りて 略して道歌の義を疏す
法相宗を壊せず 亦た倶生智を顕す
願わくはこの微塵の福 普く阿頼耶を薫じ
一切の有情類 転依して菩提を証せんことを
遍計の執を破すること 雲の長空に散ずるがごとく
円成実を親見して 湛然として心動ぜざらん
猶(なお)王穆提が 筆墨に真如を顕すごとく
世と出世間の法 二無く亦た別無からんことを
南無本師釈迦牟尼仏
南無当来下生弥勒尊仏
南無大智文殊師利菩薩
南無歴代伝承祖師
(全疏 円満)
「総導論」に続き、いよいよ本編である「第一巻:庶民への道歌疏(解説)」**に入ります。
ここでは、サラハ尊者がバラモン教の儀式や外道の苦行を痛烈に批判する偈頌(げじゅ)に対し、王穆提氏が唯識宗の「遍計所執(へんげしょしゅう)」や「依他起(えたき)」の概念を用いて、その論理的根拠を解き明かします。
巻一 庶民への道歌疏・破執顕真分(序文~第二章)
造頌者: 具徳サラハ尊者(Saraha)
疏文撰述: 菩薩蔵仏教学会 王穆提
体例: 『成唯識論述記』の科判と釈義に倣う
述(王穆提)曰く:
夫れ道歌とは、西天八十四大成就者の首座、大バラモン・サラハ尊者が、禅定の中において流出せし金剛語(ヴァジュラ・パダ)なり。その言は狂放に似て、儀軌を破斥すといえども、その本懐を究むれば、実に「心性本浄(しんしょうほんじょう)」の理を顕すものなり。これ即ち、吾が唯識宗に云う「万法唯識」、「転識成智」の旨と、名は異なれど体は同じなり。
『成唯識論』に云く、「仮(け)に我・法を説くに由りて、種々の相の転ずること有り。彼(か)の識の所変に依る。此の能変は唯だ三のみ」と。サラハの歌は、即ち「仮説の我・法」たる遍計所執を破除し、直ちに「識の所変に依る」円成実性を顕さんがためなり。大手印(マハームドラ)の「倶生智」は、即ち唯識の「無分別智」であり、大手印の「根本心」は、即ち唯識の「阿頼耶識」が転依した後の「大円鏡智」なり。
今、慈恩大師(窺基)の『述記』の規矩に依り、『義林章』の法相を融会し、この狂慧の道歌のために疏(注釈)を作す。唯識を修むる者には大手印の直截(じきせつ)を見せしめ、密乗を修むる者には唯識の厳謹を証せしめんことを冀(こいねが)う。
【原頌一】
バラモンは四ヴェーダを誦読し、これをもって自ら矜(ほこ)り心転(うたた)た高し。
未だ究竟の真実義を知らず、徒(いたずら)に泥水・古沙草(クシャ草)を弄す。
唯だ字音のア・パ・ジャを唸るのみ、この外に一義も無し。
【唯識疏釈】
一、釈名出体(しゃくみょうしゅったい):
此の頌は「声教(しょうきょう)を実となす」執着を破斥す。バラモンとは、此の方(中国・日本)にては浄行と言うが、此処では外道の儀軌に執着する者を指す。「四ヴェーダ」とは、外道の聖典なり。「泥水・古沙草」とは、祭壇を設ける具なり。「ア・パ・ジャ」とは、呪文の音声の相なり。
二、義理会通(ぎりえつう):
『成唯識論』巻一に依れば、外道は実我・実法ありと計(け)し、声(声の響き)が能く義(真理)を顕すとし、声を常住なるものと計す。しかるに唯識の理に依れば、声とは、これ第八識の相分に摂められ、耳識(にしき)が変現せし境にして、「依他起性(えたきしょう)」に属し、「円成実性」にはあらず。
遍計所執(へんげしょしゅう): バラモンは「呪音」に実体の神力ありと執し、「壇城の道具」を神聖にして実有なりと執す。これ即ち依他起の上において、妄りに遍計を生ずるものであり、「法我見(ほうがけん)」に属す。『論』に云く、「愚夫は此において横(おう)に我・法を計す」と。経を誦するも若し了義ならざれば、唯だこれ意識が「名言(みょうごん)」を縁じて転ずるのみにして、真如に触れず。
帯質境(たいしつきょう)と独影境(どくようきょう): 彼らが呪を誦する時、心は名相を縁ず。もし内証なければ、則ち所縁は唯だこれ「独影境」(妄想)、あるいは「帯質境」(本質に依託して変ず)なり。サラハが「未だ究竟を知らず」と呵責するは、即ち彼らが「二空真如」(人空・法空)を証せず、僅かに「名言薫習(みょうごんくんじゅう)」の上において種子を増益し、徒に所知障(しょちしょう)を増すがゆえなり。
【会通小結】
サラハの呵責は、経教を廃棄するにあらず、「指を執りて月と為す」を破するなり。もし文字を執りて実と為さば、即ち法執に堕す。唯識に云く、「名は自性を詮(あらわ)すも、識変を離れず」と。もし声塵は唯識の所変なりと知らば、則ち誦呪は即ち唯識観を修するなり。もし此を知らざれば、頌に云うごとく「徒に泥水を弄す」のみ。
【原頌二】
居家はこれをもって護摩(火供)を興し、酥油(そゆ)を火光の中に傾注す。
濃煙目に燻(いぶ)され涙双(ふた)つながら流る、刺痛の外に何の宗(真理)を見んや?
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「事火外道(じかげどう)」及び仏教内部の「事相供養」への執着を破斥す。火供(Homa)とは、即ち護摩、火をもって物を焚き神に供するなり。
二、義理会通:
『瑜伽師地論』本地分に依れば、定を修する者に四種の作意あり。もし僅かに外火を修し、内火(智慧の火)を修せざれば、則ち「散乱意識」に属す。
相分と見分: 火と酥油は、皆これ眼識の所縁たる「相分」なり。行者の眼根(見分)が此の相分を縁ずる時、もし第六意識が妄りに分別を加え、計度して「神聖」となさば、即ちこれ「非量(ひりょう)」(誤った認識)なり。
苦受と煩悩: 頌に云く「濃煙目に燻され涙双つながら流る」とは、此れ前五識(眼識)に「苦受」を生ぜしむるを指す。『成唯識論』に云く、「苦受は情に違う」と。行者は本来涅槃の楽を求むるに、今かえって煙燻の苦を招くは、これ因地(修行の動機・方法)が正しからざるが故なり。
唯識無境: サラハは「何の宗(真理)を見んや?」と詰問す。意(こころ)は、真理は外火より顕れるにあらず。真如の理体は、言説の相を離れ、文字の相を離れ、心縁の相を離る。外火は「色法」に属す。色法は無知(意識なき物質)なり、いかでか能く内心の「煩悩障」と「所知障」を焼き除かんや?
【会通小結】
護摩の真義は、密宗の義理に依れば「煩悩の薪を焼き除く」にあり。唯識の義理に依れば、即ちこれ「四智」の転化なり。火とは、聖智の喩えなり。もし内智を離れ、唯だ外火に事(つか)うれば、則ち拝火教と異ならず。サラハはこれをもって警策(けいさく)す。莫(なか)れ、「有漏(うろ)」の有為法をもって、妄りに「無漏(むろ)」の無為果を求めんとすること。
【原頌三】
灰を塗る外道は髪糾結し、赤身裸体にして以て潔(いさぎよし)と為す。
もし裸露即ち解脱なりと言わば、狐狼野犬は早く成仏せん。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「戒禁取見(かいごんじゅけん)」を破斥す。灰を塗り、裸体となるは、皆これ外道が「この苦行をもって涅槃を証得すべし」となす邪見なり。
二、義理会通:
『成唯識論』巻六にて根本煩悩を釈するに、「悪見」の中に五あり、その一を「戒禁取見」と為す。謂く、「因にあらざるを因と計す」なり。裸体は解脱の因にあらず、而(しか)るに因と計すは、即ち此の悪見なり。
異熟果(いじゅくか): 狐狼野犬の裸体は、「引業(いんごう)」の招感せし「異熟果」(報身)にして、智慧に由りて証せしものにあらず。もし形相が雷同(類似)せば即ちこれ解脱なりとせば、則ち畜生道は応(まさ)に仏道たるべし。此れ比量(論理的推論)に違うが故に、サラハはこれを斥く。
身見(薩迦耶見): 外道は「色身(肉体)」の相(裸露あるいは塗灰)に執着するも、実には未だ「身見」を破せず。彼らは此の色身を執して「我」あるいは「我所」と為し、此の身の受苦をもって修行となすは、実に「我執」を増長するのみ。
転依の理: 唯識宗の言う「転依」とは、須らく「染汚末那(ぜんままな)」の恒審思量(ごうしんしりょう)、及び「阿頼耶識」の中の有漏種子を転ずべし。色身の衣着の有無は、「身表業(しんひょうごう)」に属し、転依の枢機(要所)にあらず。心の垢を除かずんば、身は嬰児のごとく裸なりといえども、阿頼耶識の中には猶(なお)万劫生死の種子を蔵す。
【会通小結】
サラハの此の喩えは甚だ切なり。解脱は「無分別智」の現前に在りて、色身の遮蔽(しゃへい)の有無に在らず。これをもって行者の「外相」に対する迷信を破除し、「内識」の浄化へと帰向せしむ。
【原頌四】
抜髪して以て煩悩を断ずとなさば、光臀(こうでん/毛無き尻)も亦た応に菩提を証すべし。
もし長髪即ち瑜伽なりと言わば、孔雀・犛牛(ヤク)は更に上師(グル)なり。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は続いて「邪見」を破す。抜髪(ジャイナ教のごとき)あるいは蓄長髪(苦行ヨギのごとき)は、皆これ毛髪に対する執着なり。
二、義理会通:
法処所摂色(ほっしょしょしょうしき): 毛髪とは、唯識の義に依れば、「身根」の附属、あるいは「色法」に帰すべきなり。煩悩とは、乃ち「心所法」の中の染汚心所(貪・瞋・痴など)なり。色法と心法は、互いに依縁となるといえども、その体性は各(おの)おの異なり。色法(髪)を抜除するも、心法(煩悩)を断除すること能わず。
断惑証真: 『成唯識論』に云く、煩悩を断ずるは須らく「無漏道」の智慧の火に靠(よ)るべし。煩悩の種子は第八識に蔵され、前七識に現行す。抜髪は僅かに膚受(ふじゅ)を傷つけるのみにて、種子に触れず。もし抜髪して能く惑を断ずとなさば、則ち物理作用が心理構造を壊すこと可なりとし、此れ唯識の因果に違う。
所知障: 「瑜伽行者の形象」(長髪)を執して実有と為すは、即ちこれ「所知障」なり。孔雀・犛牛の毛は更に長し。もし「相」をもって高下を論ぜば、則ち畜生は人よりも勝れたりとなる。此れ乃ち「取相(しゅそう)」の謬(あやま)りを破斥するなり。
【会通小結】
道を修する者は当(まさ)に「意業(いごう)」を修すべし、僅かに「身業」を修するにあらず。サラハが畜生を以て喩えとなすは、意(こころ)、「無想」と「無智」を喝斥するに在り。唯識の修行は「観心」に重きを置き、遍計の本空を観じ、依他如幻を観じて、方(はじ)めて円成実を証す。
【原頌五】
垢を積み洗わざるを以て道と為す、此れ唯だ愚痴にして穢躁(えそう)を増すのみ。
内心の貪瞋もし未だ除かずんば、外在の泥塗(でいと)何ぞ告ぐる所あらん?
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「穢(けが)れを以て浄(きよ)しと為す」顛倒の見(けん)を破斥す。
二、義理会通:
雑染と清浄: 『摂大乗論』に依れば、雑染に三あり:煩悩雑染、業雑染、生雑染なり。不洗澡(ふせんそう/沐浴しないこと)は僅かに身表の垢にして、「色法」の染に属す。貪・瞋・痴は乃ち「心法」の染なり。サラハが「内心の貪瞋もし未だ除かずんば」と云うは、即ち根本煩悩が未だ断ぜられざるを指す。
相応心所: 貪とは、有(う)・有具(うぐ)において染着するを性となし、瞋とは、苦・苦具において憎恚(ぞうえ)するを性となす。此の二心所は恒に第六意識と相応し、内心を擾乱(じょうらん)す。外在の泥塗(身垢)は、内在の心所の現行を遮止すること能わず。
自証分: 衆生の自証分(心の自体)は本来自ら清浄(理仏性)なりといえども、客塵(きゃくじん)の為に染めらる。もし観行を修して以て客塵を去らず、僅かに外表に汚垢を堆積せば、是を「頭上安頭(屋上屋を架す)」と謂い、染法の上に更に染法(愚痴)を増すなり。
【会通小結】
潔浄なるか否かは、種子の転化に在り。もし阿頼耶識の中に無漏の種子充満せば、身は泥塗に処すといえども亦た是れ浄土なり(維摩経の義)。もし有漏の種子充満せば、日に千遍洗うといえども亦た是れ穢物なり。サラハの此の言は、禅宗の「本来無一物、何れの処にか塵埃を惹(ひ)かん」と同工異曲にして、皆これ「色身潔浄」への執着を破除し、「心体清浄」へと回帰するなり。
ここでは、サラハ尊者が宗教的偽善や文字への執着を打破し、唯識の核心である「阿頼耶識(種子)」へと導く過程が描かれます。
巻一 庶民への道歌疏・破執顕真分(第三章~第五章)
【原頌六】
長老は戒を受けて以て此れを矜(ほこ)り、自ら比丘と言い法衣明らかなり。
剃髪すれども心の草を除かず、仮に禁戒を持して欲界に転生す。
暗室の中において妄念起こり、世を欺き名を盗むは実に驚くべし。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「増上慢(ぞうじょうまん)」及び「覆(ふく)」の心所を破斥す。長老(Sthavira)とは上座比丘を指す。法衣・鉢は、出家の標幟(ひょうじ)なり。
二、義理会通:
我執の相: 頌に云く「以て此れを矜る」、「自ら比丘と言う」と。此れ乃ち第七末那識が恒に「我相」を審(つまび)らかに思量し、「我」を執して尊しと為し、「法」を執して実と為すなり。此れ「倶生我執」と「分別我執」の並起に属す。道を修するは本来我を破せんがためなるに、今かえって「僧相」を以て我慢を増長するは、是を名づけて「道賊」と為す。
随眠(ずいめん/Latent Tendencies): 頌に云く「心の草」、「転生す」と。此れ煩悩の種子(随眠)が阿頼耶識の中に深く蔵せらるるを指す。外に威儀(身業清浄)を現ずといえども、内心の意識流の中において、貪愛の種子が縁(暗室、独処)に遇えば即ち現行す。
覆(ふく)心所: 頌に云く「世を欺き名を盗む」と。『成唯識論』巻六に依れば、「覆」は二十随煩悩の一つにして、謂く「自ら作せる罪において、利誉(りよ)を失わんことを恐れて、隠蔵するを以て性と為す」なり。外に清浄を現じて以て利養を求め、内に垢染(くぜん)を懐(いだ)いて以て世人を欺く、此れ即ち「覆」と「誑(おう)」の二心所の並行なり。
意識の独頭活動(どくずかつどう): 暗室の中において、五根は外境を縁ぜずといえども、第六意識が「法塵(記憶・幻想)」を縁じて、「独頭の貪」を生ず。唯識に云く、「独頭の意識は、三世の境を縁ず」と。もし意根を守護せずんば、身は寺中に在りといえども、心は已(すで)に欲界に遊ぶなり。
【会通小結】
サラハは戒律を破するにあらず、「偽戒」を破するなり。真に戒を持する者は、心を摂むるを戒と為す(心戒)。もし意馬心猿(いばしんえん)ならば、身は枯木の如しといえども、亦た持戒にあらず。唯識宗は「意業」を重んず。意(こころ)清浄なれば則ち身口これに随う。此の頌は行者を警策し、「空腹高心(くうふくこうしん)」の偽道人となること莫(なか)らしむ。
【原頌七】
家を捨て道を求めて復た乞食し、妻を棄てて却(かえ)って天女に向かいて痴なり。
此れ乃ち執を易(か)うるにして出離にあらず、身出でて心留まらば更に誰か有らん?
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「取捨の相」及び「貪愛の移転」を破斥す。
二、義理会通:
貪心所の転移: 凡夫は世間の妻子を貪愛し、修行者は天界の天女(あるいは観想中の仏母・空行)を貪愛す。対象は異なれども、その「能縁」たる貪愛の心所(貪信)に別なし。唯識に云く、「能所双忘して、方(はじ)めて円成実を証す」と。もし僅かに「所縁の境」を換え(妻より天女に換う)、而(しか)も「能縁の心」は旧(もと)のごとく貪ならば、則ち解脱にあらず。
分別法執: 「家」を執して染と為し、「寺」を執して浄と為す。「妻」を執して垢と為し、「天女」を執して聖と為す。此れ乃ち第六意識の「分別変」なり。『成唯識論』に依れば、真如の理体に染浄の別なし。染浄の差別を執して実有となす者は、「法我見」に堕す。
転依の真義: 真の出家とは、煩悩の家を出で、三界の家を出ずるなり。もし身は家門を出づるも、心は欲楽を恋い、あるいは来世の福報を貪求せば、仍(な)お是れ「異熟識」(第八識)が業力に牽引さるるなり。サラハは云く「執を易(か)う」(執着の対象を交換す)と。修行人の通病――「法貪(ほうとん)」を以て「世貪(せとん)」に代え、依然として輪廻の中にあるを、精準に点出す。
【会通小結】
唯識の修観は、首(はじ)めに「唯識無境」を観ずるを重しと為す。境に好醜なし、好醜は心に在り。もし心に取捨あらば、即ち二辺に落つ。サラハは義を示す、莫(なか)れ「出家」の名相に惑わさるること。当(まさ)に内心を検視し、真に「貪愛の種子」を断じたるか否かを見るべし。
【原頌八】
エイマホ(Emaho/奇なるかな)! 愚人よ諦(あきら)かに聴け、我が所言を。
心は種子にして唯一の因なり、輪廻と涅槃は此より生ず。
悪魔と仏陀は皆これ変現にして、本質は無二にして未だ曾て更(あらた)まらず。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は唯識宗の核心義理を直顕す。「心」とは、此処では第八阿頼耶識(Alaya-vijnana)を指す。「種子(Bija)」とは、能生(のうしょう)の功能なり。
二、義理会通:
阿頼耶識は万法の本たり: 『成唯識論』巻二に云く、「此れは是れ諸の界・趣・生を能引し、善・不善業の異熟果なるが故に」と。また云く、「初能変識、大小乗教、名づけて阿頼耶となす」と。サラハが「心は種子にして唯一の因なり」と云うは、正に此の意に合す。一切の染浄法(輪廻と涅槃)は、皆阿頼耶識の中の種子より生ずる所なり。
染浄依(ぜんじょうえ): 阿頼耶識は「雑染種子」(輪廻・悪魔を生ず)と「清浄種子」(涅槃・仏陀を生ず)を含蔵す。『摂大乗論』に云く、「無始時来の界、一切法の等依なり。此に由りて諸趣有り、及び涅槃の証得あり」と。
唯識所変: 「悪魔」と「仏陀」は、皆これ唯識所変の「相分」なり。凡夫は遍計所執を以て、魔を見、仏を見る。聖者は円成実を証し、その体性の無二なるを知る(皆これ真如の顕現、あるいは識の幻変なり)。
体性不変: 頌に云く「本質無二」と。凡に在りても減ぜず、聖に在りても増さず、此れ即ち「真如」の理体なり。亦た即ち阿頼耶識の「自証分」が大円鏡智に転ずる時、その体性は未だ曾て断滅せず、只だ染を転じて浄と成す(転依)のみなるが如し。
【会通小結】
サラハの此の偈は、大手印と唯識宗の完璧なる結合と謂うべし。大手印は「心性」を言い、唯識は「識体」を言う。名相は異なれど、指帰(しき)は則ち一なり。輪廻涅槃は、外より来るにあらず、唯だ心の造る所なり。
【原頌九】
此の心を縛する者は即ち是れ縛なり、此の心を解く者は即ち解脱なり。
愚人は己が分別に被(よ)りて綑(しば)られ、外境と縄索(じょうさく)に関せず。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「繋縛(けばく)」と「解脱」の因を釈す。
二、義理会通:
分別薫習: 『成唯識論』に云く、「一切種の識の、是(かく)の如く是の如く変ずるに由りて、展転の力を以ての故に、彼彼(ひひ)の分別生ず」と。衆生の縛せらるる所以(ゆえん)は、外境に因るにあらず(山河大地に罪なし)、内心の「虚妄分別(Vikalpa)」に因るなり。
遍計所執性: 愚人は依他起の法の上において、妄りに実我・実法を執す、此れ即ち「己が分別に被りて綑らる」なり。蚕の繭(まゆ)を作るがごとく、自らその身を縛す。
唯識無境、境は心を縛せず: 唯識の要義に云く、「境に実体なし、唯識の所現なり」と。外境既に実体なくんば、何ぞ能く人を縛せん? 能く縛する者は、唯だ自心の執着のみ。故に云く「外境に関せず」と。
転識成智: 解脱とは、心識を滅除するにあらずして、「有漏識」を転じて「無漏智」と為すに在り。第六意識が転じて「妙観察智」と為り、再び虚妄分別を起こさざる時、当下即ち是れ解脱なり。
【会通小結】
此の理は至って簡にして至って深し。道を修するは環境を変うるに在らず、心境を変うるに在り。サラハは「心」を以て枢機と為し、外に向かって馳求する迷思(迷い)を破除し、唯識の観照へと回帰せしむ。
【原頌十】
学者は灯を点じて経論を読み、因明・中観を弁ずること紛紛たり。
口に空性を説けども腹猶(なお)餓えたり、乾枯(かんこ)せる文字は何ぞ身を済(すく)わん?
真理は言を離れて本(もと)より無相なり、風を捕らうる網は徒(いたずら)に神(しん)を労す。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「説通(せっつう)」にして「宗通(しゅうつう)」にあらざるを破斥す。即ち「文字障」と「所知障」を破斥するなり。
二、義理会通:
名言と自性: 唯識宗は「名・義・自性・差別」を分かつ。学者の研鑽する所は、多く「名・義」の仮立(けりゅう)に落ち、未だ「自性」に触れず。『解深密経』に云く、「勝義諦(しょうぎたい)は、言説の相を離る」と。
比量と現量: 因明の弁論は「比量」(推論)に属し、真理の証悟は「現量」(直覚)に属す。サラハが「口に空性を説く」と呵責するは、彼が僅かに比量の知(解悟)を有し、現量の証(証悟)無きを指す。人の食を説くも、終(つい)に飽くこと能わざるが如し。
風を捕らうる網: 言語文字(網)は分別の上に建立さる、而るに真如(風)は無分別なり。分別の有る工具を以て、無分別の真理を捕捉せんと欲するは、自ずから是れ徒労なり。『成唯識論』に云く、「言説薫習は、名言種子なり」と。若し転化せずんば、僅かに名言種子を増すのみにして、身を転ずれば即ち忘れ、生死を益すること無し。
【巻一結語】
第一巻の疏文、此処に至る。サラハ尊者は狂慧の剣を以て、外相の葛藤を斬断し、吾輩は唯識の理を以て、その剣法の精妙を顕発す。破斥は毀滅の為にあらず、真を顕さんが為なり。儀軌の虚なるを知りて、方(はじ)めて内証を重んじ、苦行の謬(あやま)りを知りて、方めて心性を修し、文字の仮なるを知りて、方めて真如を証す。此れ即ち『成唯識論』所謂「虚を遣りて実を存す」の唯識観なり。
(第一巻・完)
ここでは、「煩悩即菩提」という密教の危険な命題を、唯識宗の「転識得智(てんしきとくち)」や「五遍行心所(ごへんぎょうしんじょ)」の理論を用いて、いかにして安全かつ論理的に実践するかが説かれます。
** 巻二 王妃への道歌疏・転識成智分(序文~第二章)
造頌者: 具徳サラハ尊者(Saraha)
疏文撰述: 菩薩蔵仏教学会 王穆提
体例: 『成唯識論述記』の科判と釈義に倣う
述(王穆提)曰く:
前巻においては既に遍計所執の虚妄を破し、此の巻においては当(まさ)に依他起性の妙用を顕すべし。王妃への道歌は、これ「小乗の厭離」を対治する薬にして、「大乗不二」の門を開くものなり。
『成唯識論』巻十に云く、「此の五識は……一切の境において、普く能く観察し、所作の事を成ず。名づけて成所作智(じょうしょさち)と為す」と。サラハ尊者の示せる所は、即ち前五識(眼耳鼻舌身)が五塵(色声香味触)の中において、取らず捨てず、当下に転依するなり。凡夫は境において貪を起こし、二乗は境において厭(えん)を起こすも、唯だ菩薩のみ境は唯識なりと知り、故に能く「受用」の中において「無分別智」を証得す。
此の巻の旨は、「煩悩即ち菩提の慧命(えみょう)」なるを闡明(せんめい)するに在り、猶(なお)蓮華の泥を離れざるがごとし。唯識の義をもってこれを観ずれば、即ち是れ「有漏の受」を転じて「無漏の大楽」と為し、「染汚末那」の執我を転じて、「平等性智」の大悲と為すなり。
【原頌一】
もし楽の本質を知らずんば、いかでか能く空の真義を知らん?
未だ糖と塩を食せざる者の、味の差別(しゃべつ)を説くといえども終(つい)に済(すく)わざるが如し。
真理は枯れたる論の中に在らず、鮮活(せんかつ)なる体験のみ方(はじ)めて諦(たい)たり。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「比量(ひりょう)」の局限を破斥し、「現量(げんりょう)」の殊勝を顕発す。「楽(Sukha)」とは、心所法の中の「受」蘊の楽受なり。「空(Sunyata)」とは、円成実性なり。
二、義理会通:
現量と比量: 『因明入正理論』に云く、「現量とは無分別を謂う」と。糖塩の味は、舌識が親証(しんしょう)するものにして、名づけて「真現量」と為す。もし僅かに名言概念に依りて糖塩を分別せば、名づけて「比量」と為す。サラハが「枯れたる論」と云うは、即ち文に依りて義を解する比量を指し、「鮮活なる体験」とは、即ち真如を親証する現量を指す。
自証分の覚照: 唯識は四分(相分・見分・自証分・証自証分)を立つ。味を嘗(な)むる時、舌識は味(相分)を縁じ、見分は領納す。もし僅かに「相・見」の二分に停まらば、是れ凡夫の受なり。もし「自証分」が能く当下に返照し、「受」に実性なきを知らば、即ち是れ「楽の本質を知る」なり。
受心所の転化: 『成唯識論』巻三に云く、「受とは、順・違・倶非の境相を領納するを以て性と為す」と。凡夫は順境において楽受を生じ、即ち貪愛を起こす。違境において苦受を生じ、即ち瞋恚(しんい)を起こす。サラハが「楽の本質を知る」と言うは、楽に沈溺するにあらずして、「能受の心」と「所受の境」が皆自性なき(空)を観ずるなり。楽の性空なるを知りて、方めて真楽と名づく。
【会通小結】
此の頌は行者を警策す、仏法は口頭禅にあらずと。人の水を飲むに、冷暖自知(れいだんじち)するがごとし。唯識は理論構築(教相)を重んずといえども、その終極の目標は「証得」(観行)に在り。実証なき空性は、画餅(がべい)のごとく飢えを充たすこと能わず。
【原頌二】
甘美なる妙味を食すといえども、倶生喜(くしょうき)とは何ぞやを知らず。
盲人の象を摸(な)ずるがごとく徒労の功なり、感官の門戸の貴きを軽んずること莫(なか)れ。
内なる宮殿に通ずる門にして、五根は此に由りて智慧を顕す。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「転識成智」の機(き)を顕す。「倶生喜(Sahaja Bliss)」とは、密乗特有の名相なれども、唯識の義に依れば、「大円鏡智」と相応する無漏の浄楽に通ずべし。
二、義理会通:
五根と成所作智: 頌に云く「感官を軽んずること莫れ」とは、即ち五根(眼耳鼻舌身)を廃せざるなり。小乗は五根を視て賊と為し、大乗は五根を視て成仏の具と為す。『義林章』に云く、「成所作智は、事を作(な)す智なるが故に」と。仏果位の中においては、五根は互いに用を為し、法界を普照し、皆これ智慧の流露なり。
識の依他起性: 感覚の覚受(依他起)は本来善悪無し。もし「無明」と相応せば、則ち染と成り、もし「明(般若)」と相応せば、則ち浄と成る。サラハが「内なる宮殿」と云うは、即ち「阿頼耶識」転依の後の清浄法界を指す。感官は障害にあらずして、此の法界に通ずる門戸なり。
別境心所(べっきょうしんじょ): 「倶生喜を知らず」とは、謂く「慧」心所の簡択(けんじゃく)を欠くなり。甘美を食する時、もし般若の観照なくんば、僅かに「欲」と「触」の満足のみ。もし般若あらば、則ち味塵(みじん)は当下即ち真如の顕現なり。
【会通小結】
此れ乃ち唯識の「事に即して真なり」という理なり。色声香味触法を離れずして、常楽我浄を証得す。サラハは感官を断滅せず、感官の中において覚性を認むべきことを教う。
【原頌三】
耳を塞ぎて聴かず目を閉じて避くは、木のごとく石のごとく死屍のごとし。
此れ解脱にあらずして愚痴の麻木(まひ)なり、麻木は豈(あに)これ般若の智ならんや?
瑜伽行者は美色に対し、眼に見れども心は空にして両(ふた)つながら相宜(よろ)し。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「無想得(むそうとく)」及び「滅尽定(めつじんじょう)」の偏差を破斥し、兼ねて外道の「無想定」を破す。
二、義理会通:
無想定の非: 『成唯識論』巻七にて外道を破して云く、「想を厭うこと病のごとしとして、無想定を立つ」と。外道は前六識の想・受を滅除し、心を動かざること石のごとくならしむるを以て、即ち涅槃なりと思えり。サラハはこれを斥けて「木石死屍」と為す、正に唯識の宗義に合す。彼(か)れ前六識の粗顕なる心所を伏滅すといえども、第七末那識の「我執」未だ断ぜず、第八阿頼耶識の種子未だ転ぜず、報(むくい)尽きれば還(ま)た堕す、真の解脱にあらず。
境は心を染めず: 頌に云く「眼に見れども心は空なり」と。眼識が色(相分)を縁ずる、此れ現量にして、染浄に関せず。染浄は第六意識の「分別」と第七識の「執着」に在り。もし第六意識が転じて「妙観察智」と為らば、則ち色を見るも唯だ色を見、相応して「好醜の想」を起こさず、「貪瞋の心」を起こさず。
唯識無境: 境に実体なく、唯識の所変なり。既に是れ識変なれば、則ち境は即ち是れ心なり。何ぞ境を避くるを須(もち)いん? 境を避くるは即ち心を避くるにして、是れ「心外に法を求む」なり。
【会通小結】
真の解脱者は、活溌溌地(かっぱつぱっち)なり。声色(しょうしき)の中において、干戈(かんか)を動かさず。唯識の修観は、要は「観念を転変する(転識)」に在りて、「環境を隔絶する(避境)」に在らず。
【原頌四】
蓮華は泥より生ずれど泥に染まらず、瑜伽は愛欲に在れど欲は険(けわ)しからず。
凡夫は沈淪(ちんりん)し行者は昇る、水は舟を覆(くつがえ)すと同じく亦た舟を載す。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「染浄不二」の大乗中道の義を顕す。
二、義理会通:
阿頼耶識は染浄の依たり: 阿頼耶識は水のごとく、煩悩は泥のごとし。『摂大乗論』の引く所の『阿毘達磨大乗経』に云く、「無始時来の界、一切法の等依なり。此に由りて諸趣(雑染)有り、及び涅槃(清浄)の証得あり」と。凡夫は之に依りて生死を生じ(覆舟)、聖者は之に依りて涅槃を証す(載舟)。
煩悩即菩提: 煩悩の体即ち菩提というにあらず、煩悩の勢力を利用し、転じて菩提の資糧と為すを謂うなり。密乗の貪道(とんどう)は、即ち「貪」の専注(集中力)と熱力を利用し、転化を加う。唯識に云く、「転識成智」と。識を滅して智と成すにあらず、是れその「相応心所」を転ずるなり。
四智転依: 「愛欲」の本質は、乃ち第七識の「倶生我愛」なり。もし第七識を転じて平等性智と為さば、則ち「我愛」は転じて「大慈悲」となる。衆生を視ること己のごとく、愛に差別なくんば、即ち染汚(ぜんま)なし。
【会通小結】
サラハの此の喩え、正に唯識の「転依」の妙を顕す。所依(阿頼耶識)は一なれど、能依(染浄諸法)に別あり。行者は当(まさ)に染の中に浄を見、泥の中に蓮を見るべし、方めて中道に契(かな)う。
【原頌五】
感官に執着せば輪廻に堕し、感官を圧抑せば道と相背(そむ)く。
剃刀(かみそり)の縁(ふち)を履(ふ)むがごとき険窄(けんさく)の路、享受すれども無執なるを方めて貴しと為す。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「中道」の義を顕し、「増減の二辺」を破す。執着は是れ増益(ぞうやく)辺、圧抑は是れ損減(そんげん)辺なり。
二、義理会通:
遍計本空、依他如幻: 「感官に執着す」とは、依他起の上において遍計の執を起こし、我・我所と計するが故に輪廻に堕す。「感官を圧抑す」とは、依他起性を厭悪し、之を滅して後快しと欲するもので、此れ二乗の焦芽敗種(しょうがはいしゅ)に堕す。
妙観察智: 唯識の中道は、「虚を遣りて実を存す」と謂う。非有とは、遍計所執無きなり。非空とは、依他起性と円成実性有るなり。頌に云く「享受すれども無執」とは、即ち『維摩経』の「諸の触を受くること響きの応ずるが如し」なり。受用する時、妙観察してその夢のごとく幻のごとく、実体なきことを見る。
険窄の路: 中道は行き難く、稍(やや)偏すれば即ち堕す。「享受」と言えば、易(やす)く縦欲に滑り、「無執」と言えば、易く断滅に滑る。故に薄氷を履むがごとく、念念に覚照することを需(もと)む。
【会通小結】
此れ即ち『成唯識論』の核心、「非有非空」なり。行者は当に五欲の紅塵の中において、此の中道観を修すべし。
【原頌六】
蜜蜂は蜜を採れども花を損ぜず、行者は世に入りて跡を存せず。
生命の大盛宴を享受し、無執の楽をもって道の門と為す。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「無住生心(むじゅうしょうしん)」の妙行を顕す。
二、義理会通:
無住涅槃: 大乗の菩薩は生死に住せず(般若を以ての故に)、涅槃に住せず(大悲を以ての故に)。蜜蜂の蜜を採るに、花に住せず、亦た花を離れざるがごとし。
三輪体空(さんりんたいくう): 行者は六塵を受用する時、「能受の我」、「所受の境」、「受用の法」の三者皆空なりと観ず。能受なく、所受なく、唯だ識変の幻相の流動あるのみ。
種子六義(しゅうじろくぎ): 種子は現行を生じ、刹那に滅す。凡夫は楽を受けて、実有と執し、之を留めんと想う、故に苦を生ず。行者は法の刹那に生滅するを知り(刹那滅)、受は流れ去りて、了(つい)に痕跡なきを知る(跡存せず)。故に能く享受すれども滞留せず。
【会通小結】
此れ乃ち唯識の生活美学なり。一切法は夢幻泡影のごとしと知るが故に、能く尽情(心の限り)役割を演ずるといえども、役割に困(くる)しまれず。
ここでは、密教の奥義である「楽空不二(らくくうふに)」の境地が、唯識の「無分別智」や「大円鏡智」といかに通底しているかが論じられ、第二巻が完結します。
巻二 王妃への道歌疏・転識成智分(第三章~第四章・完)
【原頌七】
両木相(あい)鑽(き)りて火花発し、方便と智慧合して暇(いとま)無し。
倶生の火焔は分別を焼き、大楽(マハースカ)の中に人・法無し。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は密教をもって顕教を詮(あらわ)し、「悲智双運(ひちそううん)」を融会す。木もて火を鑽(き)るは、「加行(けぎょう)」より「正智」を生ずるに喩う。
二、義理会通:
止観双運: 両木相鑽るは、一は「止(奢摩他/シャマタ)」に喩え、一は「観(毘鉢舎那/ヴィパッサナー)」に喩う。止観双運して、「無分別智」の火を生ず。
能取所取倶(とも)に泯(ほろ)ぶ: 『成唯識論』巻九に云く、「若し時(あるとき)所縁において、智都(すべ)て所得なきときは、爾の時唯識に住す。二取の相を離るるが故に」と。頌に「分別を焼く」と云うは、即ち「能取(見分)」と「所取(相分)」の二元対立を焼き除くことなり。
二空真如: 頌に「人・法無し」と云うは、即ち「人無我」と「法無我」を証得するなり。此の時、阿頼耶識は転依して、現前に円明(えんみょう)なり、名づけて「大楽」と為す。
【会通小結】
唯識の「無分別智」と大手印の「倶生智」は、体同じくして名異なり。皆これ二元対立の摩擦(修証)に由りて、二元を超越せる覚悟を引発するなり。
【原頌八】
彼の処に我無く亦た他無し、輪廻と涅槃は一如の家なり。
赤裸なる明覚、純浄の智、諸仏の密意は此の中より発す。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「円成実性」の体相を顕す。
二、義理会通:
平等性智: 「我無く他無し」とは、即ち第七識が転じて平等性智と為り、自他平等にして、隔閡(かくがい)なきなり。
真如無差別: 「輪廻と涅槃は一如なり」とは、唯識の理に依れば、生死即ち真如、涅槃も亦た真如なり。妄を離るれば則ち涅槃と名づけ、縁に随えば則ち生死と名づく。体性は唯一にして、無二無別なり。
大円鏡智: 「赤裸なる明覚」とは、即ち第八識が転じて大円鏡智と為り、諸の塵垢を離れ、清浄円明にして、万法を洞照(とうしょう)するなり。此の智即ち是れ「諸仏の密意」にして、亦た即ち如来蔵なり。
【会通小結】
サラハは心性の本源を直指す。此の本源は、唯識にては「浄識(じょうしき)」と名づけ、密宗にては「光明」と名づく。
【原頌九】
愚人は刹那の楽を貪求し、蜜を舐めて舌を割くも錯(あやま)りを知らず。
当(まさ)に楽の本(もと)は楽境にあらずと執し、内に旋(めぐ)りて身心の廓(わく)に充遍せしむべし。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「有漏(うろ)の楽」を破し、「無漏(むろ)の楽」を顕す。
二、義理会通:
壊苦(えく): 世間の楽は、「壊苦」に属す。刹那に即ち逝(ゆ)き、随いて即ち空虚を生ず(舌を割く)。此れ乃ち「相分」(外境)を貪求するの過(とが)なり。
自受用身: 頌に「楽の本は楽境にあらずと執す」と云うは、意(こころ)、快楽の源は外境に在らずして、内心の「自証分」に在りとするなり。行者は当に回光返照し、内在の法楽を受用すべし。此の楽は法界に周遍し(身心に充遍す)、一処に局限せられず。
転依の楽: 煩悩の熱悩を転じて、清涼の大楽と為す。此の楽は外縁に依らず、乃ち本性自ずから具す(倶生)。
【会通小結】
「逐物(ちくぶつ)の楽」より「自性の楽」へと転向す、此れ即ち唯識宗の「転識成智」の受用層面における体現なり。
【原頌十】
春風吹拂えば樹は自ずから芽ぐみ、真理照曜すれば心に花開く。
造作して強いて扭捏(じゅうねつ/こねくり回す)するを須(もち)いず、自然の喜悦は万家に入る。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「無功用行(むくゆうぎょう)」を顕す。
二、義理会通:
法爾(ほうに)として是の如し: 種子は現行を生ずること、春風の芽を生ずるがごとく、法爾として是の如し。真如薫習(真理照曜)すれば、本有の無漏種子は自然に現行を生ず。
第八地菩薩: 頌に「造作を須いず」と云うは、即ち七地以前は「有功用行」を需(もと)むるも、八地以後は「無功用行」に入る。任運自然にして、強(し)いて勉めず。
円成実の顕現: 遍計の執破れ、依他起浄(きよ)ければ、円成実性は自然に顕現す。雲開けて月明らかなるがごとく、造作に由りて得たるにあらず。
【巻二結語】
巻二の疏文、此において『王妃への道歌』の楽空不二と、唯識の転依の義を会通せり。サラハ尊者は「王妃」を以て智慧のエネルギーに喩え、行者に教うるに、感官の受用の中において、取らず捨てず、直ちに法空を証せしむ。此れ唯識宗の「妙観察智」及び「成所作智」の理と二無きなり。
煩悩即菩提とは、煩悩の体即ち菩提なるにあらず、乃ち煩悩の「用(はたらき)」を転じて菩提の「資(たすけ)」と為すなり。猶(なお)画師(王穆提)が、墨(煩悩の色)を以て紙に入れ、転じて聖境(阿里山)と為すがごとし。
(第二巻・完)
巻三 国王への道歌疏・円成実性分(序文~第二章)
造頌者: 西天大成就者 サラハ尊者(Saraha)
疏文撰述: 菩薩蔵仏教学会 王穆提
体例: 『成唯識論述記』の科判と釈義に倣う
述(王穆提)曰く:
前二巻においては既に遍計所執の虚妄を遣(や)り、復(ま)た依他起性の縁生(えんしょう)を明らかにせり。今この巻三『国王への道歌』は、サラハ尊者が心王(シンタ・ラージャ)を直指し、円成実性(Parinispanna-svabhava)の究竟の義を顕発するものなり。
「国王」とは、第八阿頼耶識(アーラヤ識)に喩う。凡夫の位においては、雑染種子の所依(しょえ)となり、聖者の位においては、転じて清浄円明となり、大円鏡智(だいえんきょうち)と名づく。尊者のこの歌は、「無修無整」をもって示す。これ即ち唯識宗の「根本無分別智」が真如を親証する現量の境界なり。
『成唯識論述記』巻一に云く、「我・法を謬執(びゅうしゅう)して唯識に迷う者に開示し、二空を達せしめ、唯識の理において如実に知らしめんが為の故なり」と。サラハの「心は虚空のごとし」とは、即ちこの「二空を達せしむる」ことであり、その「駱駝の縛を解く」とは、即ちこの「如実に知る」ことなり。本疏は護法菩薩の正義に依り、大手印と唯識観の不二を顕し、行者をして仏性は造作に由りて得るにあらず、乃ち「転依(てんね/Asrayaparavrtti)」に由りて顕るるを知らしむ。
【原頌一】
エイマホ! 国王よ諦(あきら)かに聴け、我が所言を。
心の自性は本(もと)より清浄にして、かの虚空のごとく生滅無し。
もし能く親(まのあ)たりに此の本性を見ば、一切の造作は皆これ多余なり。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「円成実性」の体相を顕す。「心の自性」とは、即ち諸法の実相にして、名づけて真如(Tathata)と曰う。「虚空」とは、無為法の喩えなり。「造作」とは、有漏(うろ)の加行(けぎょう)なり。
二、義理会通:
心性本浄: 『成唯識論』巻二に云く、「心性は本浄なれども、客塵(きゃくじん)に染めらる」と。此れ阿頼耶識は雑染の種子を含蔵すといえども、その顕す所の真如理体は、本来自ら清浄なるを言う。真如とは、乃ち二空(人空・法空)の顕す所の理にして、体性は凝然(ぎょうねん)とし、生ぜず滅せず、有為法にあらざるが故に、「虚空のごとし」と云う。
無為法体: サラハが虚空をもって真如に喩うるは、正にその「無為」の義を顕すなり。唯識の正義に云く、真如は万法を生ぜず、亦た法に生ぜられず、常恒(じょうごう)に安住す。万法は唯だ種子より生じ、真如は唯だこれ諸法の実性なり。
見道位の現量: 「もし能く親たりに此の本性を見ば」とは、即ち唯識五位の中の見道位(けんどうい/Darsana-marga)なり。此の時、根本無分別智現前し、真如を冥証(みょうしょう)して、能所双忘す。既に無為を証すれば、則ち往昔の有漏の修持(造作)は、皆これ依他起上の方便にして、親証の因にあらざるを知るが故に、「多余」と云う。
【会通小結】
此の頌は「理仏性(りぶっしょう)」を直指す。行者は当に知るべし、真如の理体は、聖に在りても増さず、凡に在りても減ぜず。画師(王穆提)の筆下の余白のごとく、筆墨の造る所にあらず、乃ち本有(ほんぬ)の空間なり。
【原頌二】
雲は聚散すれど長空の中にあり、空は本(もと)より無染にして亦た無浄なり。
煩悩は心内に生滅すれども、心体は湛然(たんぜん)として未だ曾て動ぜず。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「虚空の喩え」を用い、「依他起」と「円成実」の不一不異の理を顕す。雲は「依他起」(雑染法)に喩え、空は「円成実」(真如理体)に喩う。
二、義理会通:
依他無性なれば即ち円成: 雲(煩悩)は乃ち因に仗(よ)り縁に托して生じ、依他起性に属す。虚空(真如)は乃ち雲の実性にして、円成実性に属す。雲は空に依りて現ずといえども、雲は空より生ずるにあらず、空も亦た変じて雲となるにあらず。同じく、煩悩は阿頼耶識の種子に依りて生じ、真如に由りて生ずるにあらず。
真如凝然常住: 護法の義においては、真如の体性は凝然として、諸法を作(な)さず。サラハが「心体は湛然として未だ曾て動ぜず」と云うは、正に此の義に合す。動ずる者は識(阿頼耶識が受薫して転変す)なり、動ぜざる者は性(真如無為)なり。
客塵の義: 雲は客塵(Agantuka-klesa)に喩え、空は主体に喩う。客に来去(らいこ)あれども、主(あるじ)に動移なし。転依の時、是れ真如の上の染汚を滅除するにあらず(真如に本より染なし)、是れ阿頼耶識の中の染種(ぜんしゅ)を転じて浄種となし、真如の理体をして顕現せしむるのみ。
【会通小結】
サラハの此の喩えは、精準に「識」と「性」を区分せり。煩悩の生滅(雲の聚散)は是れ第八識中の種子の現行なり。行者が観照する時、雲(生滅法)は空(不生滅法)を妨げざるを知る、即ち是れ唯識の実性を証するなり。
【原頌三】
心は駱駝(らくだ)のごとし強いて縛すること勿(なか)れ、縄索(じょうさく)緊(かた)き時は転(うたた)た掙扎(そうさつ/あがく)す。
羈絆(きはん)を解きて任(まま)に安住せしめよ、無修無整にして光自ら発す。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「有功用行(うくゆうぎょう)」を破し、「無功用行(むくゆうぎょう)」を顕す。駱駝は「第六意識」の躁動に喩う。縄索は「止観」の刻意の造作(有漏の加行)に喩う。
二、義理会通:
第六識の掉挙(じょうこ): 凡夫が定を修するに、多く第六意識(Manovijnana)を用いて強力に圧制す、此れを「有相の止」と名づく。然るに第六識もし未だ転依せざれば、その本質は仍(な)お「分別」にして、圧抑すればするほど、反発は愈々(いよいよ)大なり(掙扎)、此れ乃ち種子の勢力の反撲(はんぼく)なり。
能取所取を捨て去る: 「羈絆を解く」とは、染法を放縦(ほうじゅう)するを謂うにあらず、乃ち「能縁(見分)」の「所縁(相分)」に対する執着を捨て去るを謂うなり。『成唯識論』に云く、「現前に少物(しょうもつ)を立て、是れ唯識性なりと謂わば、所得(しょとく)有るを以ての故に、実に唯識に住するにあらず」と。強いて縛するは即ち「所得有り」、解くは即ち「所得無し」。
大円鏡智の顕発: 「無修無整」とは、即ち妄想分別を加えず。第六・七識が、再び妄りに第八識を執して我・法と為さざる時、第八識は自然に転じて大円鏡智と為り、大円鏡のごとく、物来れば則ち照らし、物去れば留めず、故に「光自ら発す」と云う。
【会通小結】
此れ乃ち大手印の「無修(Non-meditation)」の精髄にして、亦た即ち唯識宗第八地(不動地)以上の境界――無功用行(Anabhoga)なり。任運自然にして、絲毫(しごう)の努力を仮らず、画家の運筆のごとく、意は筆先に在り、筆は意に随いて転じ、凝滞すること無し。
【原頌四】
心の風を抓(つか)まんと欲するも得べからず、念の流れを断ざんと欲すれば更に惑(まどい)を増す。
唯一の竅訣(きょうけつ/秘訣)は只だ鬆(ゆる)めるに在り、執着を鬆脱(しょうだつ)せば仏即ち得たり。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「断滅見」と「増益見」を破斥す。心風は「掉挙」に喩え、念流は「等無間縁(とうむけんえん)」の意識流に喩う。
二、義理会通:
心念の刹那生滅: 唯識に云く、「諸行は無常にして、是れ生滅の法なり」と。心念は瀑流のごとく、刹那に留まらず。之を抓まんと欲せば、「常見」に堕し、之を断ざんと欲せば、「断見」に堕す。皆中道にあらず。
平等性智の観照: 「鬆(ゆる)める」とは、即ち第七末那識(Manas)が転じて平等性智と為るなり。末那識は恒に「我相」を審(つまび)らかに思量し、第八識の見分を緊(かた)く抓みて放さず。もし能く此の「倶生我執」を鬆脱せば、則ち第六識の分別は即ち転じて妙観察智と為る。
円成実の現前: 「仏即ち得たり」とは、外より得るにあらず、乃ち自性の顕現なり。唯識に云く、「二取の相を離るる、唯識性と名づく」と。能取・所取を鬆脱せば、即ち円成実性を証す。
【会通小結】
サラハの「鬆(ゆるめる)」は、即ち唯識の「捨(Upeksa)」なり。遍計を捨離せば、当下即ち真なり。
これは『サラハ尊者道歌三部作唯識新疏』の本文翻訳(最終回分)です。
「第三巻:国王への道歌疏」の後半部分、すなわち「第三章(一味瑜伽と法界縁起)」「第四章(総結と回向)」を翻訳し、全三巻を完結させます。
ここでは、サラハ尊者の究極の境地である「一味(いちみ)」と、唯識宗の「事事無礙法界(じじむげほっかい)」が完全に融合し、現代の唯識行者・王穆提氏による力強い結びの言葉で締めくくられます。
翻訳(続き): 巻三 国王への道歌疏・円成実性分(第三章~第四章・完)
【原頌五】
水の水に入るがごとく二別無く、油の油に溶くるがごとく体相徹す。
能所双忘して本際(ほんさい)に住すれば、輪廻と涅槃は同一の舌(味)なり。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は「一味瑜伽(いちみゆが)」及び「事事無礙法界」を顕す。
二、義理会通:
無分別智: 『成唯識論』巻七に云く、「能所双忘して、唯識に証入す」と。水の水に入るは、「能縁の智」と「所縁の理」が完全に冥合し、能所の分なきに喩う。これ即ち根本無分別智(Nirvikalpajnana)の体相なり。
法界の体性は一味なり: 油の油に溶くるは、万法の体性が皆これ真如にして、差別なきに喩う。輪廻(雑染)と涅槃(清浄)は、皆第八識の種子に依りて生じ、その「所依」の理体(真如)に無二無別なるが故に、「同一の舌」と云う。
四智円明: 此の時、前五識は転じて成所作智と為り、第六識は転じて妙観察智と為り、第七識は転じて平等性智と為り、第八識は転じて大円鏡智と為る。四智円明にして、統摂して一真法界と為す。
【会通小結】
此れ乃ちサラハの終極の見地なり。凡なく聖なく、修なく証なし。一切法は皆これ真如の遊舞なり。王穆提の巨幅の画作『中道の光』は、即ち此の「能所双忘、境智一如」の境界を視覚的形式を以て現さんと試みたるものなり。
【原頌六】
真理は太(はなは)だ近きが故に見えず、太だ簡(かん)なるが故に人は信ぜず。
無得無失にして本(もと)より円満なり、獅子の吼声(くせい)邪印を破る。
此れ乃ちバラモン・サラハが、最後の道歌として世に留むる訊(たより)なり。
【唯識疏釈】
一、釈名出体:
此の頌は全篇を総括し、「本有円成(ほんぬえんじょう)」を顕し、信と修証を勧む。
二、義理会通:
迷悟の別: 『成唯識論述記』巻一に云く、「又た真如を以て迷悟の依と名づく、真如に迷うが故に謬(あやま)りて我・法を執す」と。衆生の迷うは、真如を失うにあらず。諸仏の悟るは、真如を得るにあらず。衣裏(えり)の明珠のごとく、太だ近きが故に見えざるのみ。
大道至簡(だいどうしかん): 繁鎖なる名相(五位百法)は初機を接引せんが為にして、終極の真理(唯識の実性)は当下即ち是れなり(太だ簡なり)。
決定勝解(けつじょうしょうゲ): 「獅子吼」は、菩薩が法において畏るる所なく、外道の邪見(邪印)を破除するに喩う。王穆提が「経論編集者」の身を以て、此の狂慧の道歌を註疏するも、亦た是れ獅子吼を発し、当代芸術と仏法との隔閡(かくがい)を破除し、「世と出世間不二」 の大乗の真義を顕発せんが為なり。
【巻三結語】
全三巻の疏文、此処に至りて円満せり。サラハ尊者の大手印と、唯識宗の転識成智は、教相に別ありといえども(一は遮し一は表す)、理体に二無し。
一者は「果位」より直指し(狂慧)、一者は「因地」より詳析す(法相)。
今、唯識の正義に依り、改めて道歌を詮釈せるは、狂者をして理に帰せしめ、理者をして真に証せしめんが旨なり。
願わくは見る者聞く者、皆唯識の実性を証入し。
(全三巻・完)